ルワンダ・ザイール情勢について

● 1996年11月作成●


ルワンダ・ザイールの近況

1996年10月30日のイギリスBBC放送によると、ザイール軍がルワンダに向けて砲撃を行った模様。

ザイールとの国境にあるルワンダ西部の町チェンググでは、ザイール軍からの国境越しの砲撃があり、ルワンダ群も激しく応戦したという。 この後戦闘は激化し、国を追われてザイールに東部逃げこんでいたフツ族(ルワンダ多数派民族)は、この戦闘を逃れるために市民は再び難民となり、ルワンダへ通ずる道は人で埋め尽くされ、力尽きたものは取り残されているという惨状を引き起こしている。 戦闘がさらに激化・長期化するとこの惨状はさらにひどくなる見通しで、国連安全保障理事会は、フランスが提案した多国籍軍を派遣することを検討したが、足並みがなかなかそろわない状態である。

どうして紛争が起こったのか

ルワンダ・ブルンジ・ザイール東部のこの地は、大変肥沃な地であり、農耕するにも、牧畜をするにも適した土地である。もう少し北に行けばそこは砂漠であり、この地帯の西・南部は熱帯雨林が生い茂っており農耕・牧畜をするのには適さない。東部は山脈地帯である。 ここに、元々は多数派で農耕民族であったフツ族が何万年も前から住み着いていた。

この地へ少数派であり牧畜民族であるツチ族が、この肥沃な地に牧草を求めて北部からルワンダ・ブルンジ・ザイール東部へと流れてきたのがところから、民族抗争の歴史は始まる。 しかし、そこでの抗争は部族レベルのものであり、自分たちの土地に侵入してきたものを追い払うという意味での闘争であった。

16世紀の大航海時代を迎えると、ヨーロッパ諸国の植民地政策が始まり、ルワンダは19世紀末にドイツの植民地となり、第1次世界大戦でのドイツ敗北後は、ベルギーの委任統治領となりました。

この頃には、ルワンダにいたフツ族とツチ族はすでに混ざり合っていて、同じ村にこの2つの民族が共存していることは珍しくなかったのですが、植民地支配を推し進めようとする欧米諸国が彼らを支配しやすいようにするために、彼らにIDカードを持たせて差別化し、また政府の重要なポストにはツチ族のみをつけ、教育もツチ族のものにだけ行なうなどして、部族間の対立をあおったのです。

ドイツもベルギーも、ツチ族の王政を支持し、ツチ族とフツ族との対立をその支配に最大限利用してきました。

この植民地体制は、実質第二次世界大戦まで続いたが、1960年にアフリカ諸国が独立を果たした後も、ヨーロッパ諸国は元植民地の「政権の安定」という建前で、他民族排他的な政府を支持し、彼らに軍事援助・独占的貿易を行っていた。

そして第二次世界大戦後の1959年、これまで不満を募らせていたフツ族が反乱に立ち上がって王政が廃止され、62年に共和国としてルワンダはベルギーから独立します。

その後、73年にフツ族で、当時の国防相であったハビャリマナが軍事クーデターを起こして政権を握り、75年には全ての政党を解散し、独立体制を確立して大統領に就任します。

このころから目立つようになったのがフランスの介入です。75年にルワンダと軍事協力協定を結んだフランスは、多額の軍事援助、ルワンダ政府軍や民兵組織の育成などでハビャリマナ大統領をささえてきました。

90年10月に、ルワンダ独立のころにウガンダに逃げ込んだツチ族の子弟や独裁政権に反対するフツ族の人々がルワンダ愛国戦線(RPF)を結成し、ウガンダを拠点として攻撃を開始しました。RPFが首都キガリにせまる中、ハビャリマナ政権は93年8月にアルーシャ協定(和平協定)を結ばざるを得なくなります。その中身は、挙国一致内閣を作り、1年10か月後には総選挙を行なうというものでした。しかしこの協定が引き伸ばされている間に、1994年4月にハビャリマナ大統領の暗殺があり、それを発端として報復合戦が発生し、3ヶ月に50万人が殺されるというような大虐殺に至ったのです。

この時の内戦で、ツチ族が政権を握るようになり、彼らからの虐殺を恐れたフツ族が自分の住み慣れた土地を離れ、国内外に逃亡し、それによって20世紀最大ともいわれる200万以上の難民が発生したのです。

ルワンダのツチ族政府は虐殺を否定しており、フツ族のルワンダへの帰還を呼びかけているが、虐殺を恐れた難民の帰還は進まず、フツ族の難民を引き受けている隣国とルワンダとの対立は深まっていったのです。

そうした中で今年10月、フツ族主導の現ザイール政府とルワンダのツチ族武装勢力の衝突が起きたのです。衝突は1週間の間にルワンダ・ザイール間の紛争へと発展し、ザイール東部だけで100万人以上といわれる難民が発生し、ならびにルワンダ、ブルンジなどの周辺諸国も巻き込み、大変な混乱状態となっています。 

 3ヵ月で50万人以上の死者を出した2年前のルワンダ内戦が終結してから、難民帰還の問題がまったく解決しなかったことも根本にある大きな要因で、とくに弱い立場にある子どもと女性は深刻な打撃を受け、基礎的な保健や食糧、生活必需品、疾病など、さまざまな緊急援助が待たれています。

結局、問題点は?

ルワンダ・ブルンジでの現政権はツチ族であり、ザイールでの現政権はフツ族が握っていることが、この紛争での原因につながっているが、このような構造を作り出したヨーロッパ諸国の過去の振る舞いも見落とす事はできない。

今回の紛争では、多国籍軍の派遣に於いてはかつての植民地の宗主国であるフランスが真っ先に多国籍軍の派遣を提起しているが、かつての歴史を見ても、ザイールの大統領(フツ族)が現在フランスで休養している事を考えても、これが紛争の根本的解決につながるとは言い難いであろう。

ユニセフの援助プラン

1.緊急の物資援助

ルワンダ

 ルワンダへの難民帰還を行うために、約30万人分の医薬品、子どもの補助食糧、水、毛布などの救援物資を備蓄しました。また、ザイールからの帰還難民の子どもたちを支援できる態勢をギセニで整えました。

 11月8日には、イタリア政府から275千米ドル分の救援物資がキガリに空輸されましたが、これはユニセフならびにそのパートナーのNGO(非政府組織)の活動を支援するためです。

ウガンダ

カンパラでは追加の緊急救援物資の提供を開始しました。11月3日には、コペンハーゲンのユニセフ物資集積センターから、子ども用の補助食糧や救急医薬品など26.5トンの救援物資が、オランダ政府の協力でカンパラに空輸されました。また、11月12日には、医薬品、子ども用の補助食糧、毛布、ポリ容器など124トンの救援物資をロシア政府の協力で空輸する予定です。

ザイール

 戦闘を避けるためにザイール内を移動中の難民や一般市民のために、3回目のキンシャサへの救援物資供給を計画中です。

タンザニア

到着している難民のために、救援物資の補給拠点をギゴマに設けました。

ブルンジ

 ザイールからの5万人の帰還難民のために、子ども用の補助食糧、医薬品、生活必需品などの救援物資を準備しました。

 少なくとも6400人が使用可能なトイレの設置と消毒剤の提供、さらに毎日12万リットルの水の補給を行っています。

2.救援隊の動員

 ユニセフは、キンシャサとナイロビにプログラム遂行のための救援隊の拠点を置き、被災した人たち、とくに子どもと女性を優先に、かれらの緊急のニーズを把握しながら支援を開始しています

3.緊急プランと資金の使用用途

 ユニセフは、総額11,077千米ドル(約12億円)の援助を計画しており、内訳は次のとおりです。

・保健 2,422千米ドル

    ワクチン、注射針と注射器、緊急保健セット、保健専門家の派遣など

・栄養 1,344千米ドル

    子どもたちへの栄養補助食品、栄養専門家の派遣と調査など

・水と衛生 1,228千米ドル

    安全な水の提供、トイレの設置、消毒剤、専門家の派遣、衛生教育

・保護者のいない子ども 1,181千米ドル 

    身元の照会・登録・親兄弟の追跡、カウンセリングなど

・緊急物資 2,230千米ドル

    プラスチックシート、調理器具、ポリ容器、空輸費用など

・教育 720千米ドル

    基礎教材、仮設教室の設置など

・物資配送関連費 1、627千米ドル

    輸送費、倉庫費、労務費など

・プログラムの監視・情報収集 325千米ドル

    人件費など


皆さんのちょっとしたお金で多くの命が救えるのです。