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民族間の憎しみの絶えないルワンダ


@ルワンダという国 〜その国土と歴史〜

現在なお内戦状態に陥っているルワンダ。しかし、元々このルワンダという国は、アフリカの中に在って緑豊かな国なのです。かつてルワンダを訪れた人々はこの赤道直下の熱帯雨林地帯に位置する小国(26,338平方キロ、長野県と新潟県を合わせたぐらい)を『緑の山々と湧き出る泉がどこまでも続く豊かな国』と言ったものでした。
この小国には人も多く住み(750万人)、バングラディッシュに続いて人口密度が高い(1平方キロあたり平均290人)のも事実です。
ルワンダの主要民族はフツ族(89%)とツチ族(10%)、ほかにトワ族(1%)がいる。この国の主要民族であるフツ族とツチ族は昔から民族抗争の歴史を持ちながらも、共存してきました。

Aルワンダの国内情勢

ルワンダでは、前にも書いたように昔から内戦が起こっていました。植民地支配を受けていた19世紀のころから、1962年の独立後も、そして最近は1990年から91年頃にかけてもひどい内戦がありました。(詳しくは後述)
今回の内戦が直接起こったきっかけは、4月6日に、長期にわたって独裁を続けていたフツ族出身のハビャリマナ大統領の飛行機事故死(暗殺だと言われている)が発端となって起こったものです。この事件をきっかけに大統領の親衛隊や政府軍、民兵組織によるツチ族への『報復』が始まった訳です。この『報復』によって、最初の4週間だけで50万人ものツチ族、あるいはフツ族内の独裁反対者たちが虐殺されたと言われています。

フツ族の青年の証言
「村には、政府から200万円ものお金が渡され、「ツチ族を殺せ』との辞令が下ったのです。そして、ツチ族を1人殺すごとに100円づつお金がばらまかれるのです。お金に目がくらんだ村の若者は、ツチ族の虐殺に躍起になりました。「みんなやっているから」という風になってしまったからですかねぇ…半数以上の若者はこの虐殺に荷担していたでしょう。初めは村に1000人はいたツチ族は、今では10人ほどになってしまいました。昔は仲良く暮らしていたのに…」


この大虐殺の中で、ツチ族を中心として結成されているルワンダ愛国戦線(RPF)は、独裁政権打倒の旗を掲げて軍事攻勢をかけ、敗走する政府軍は、国内に残るフツ族に対して「国内に残ると新政府の『報復』を受けるぞ」と宣伝、国外脱出をそそのかしました。そのためにフツ族の間ではデマが飛び交い、パニック状態が起こり、国外に200万人ともいわれる大量の難民がうみだされたのです。
1994年7月中旬までに、この戦いで家を追い出され、国内で避難生活を余儀なくされた人200万人以上。他国に逃れた難民は推定200万人(ザイールのゴマに100万人、ブカブ30万人、ウビラ23万人、タンザニア33万人、ブルンジへ10万人、ウガンダへ1万人)にまで達している。以前人口35万人あったとされる首都キガリの人口も3〜5万人の間に激減した。

ユニセフルワンダ国内スタッフの話
「ルワンダ国内では虐殺された市民の死体があちらこちらにころがっており、その死体の放置による水質の汚染、断水そして健康・衛生施設の欠如などによって、被害はますます広がる様相を呈しており、一般市民の健康も危機にさらされています。それに加えてコレラ、赤痢、紛争前から流行っていた風土病によって、キガリ市内の女性や子どもたちから、より多くの犠牲者が出る可能性があります。」

B内戦が起こった背景

元々ルワンダの地には、農耕民族のフツ族がいたのですが、15世紀に牧畜民族のツチ族が流入してきて王国を築き、フツ族を封建的な主従関係で支配したのです。
その後、ルワンダは19世紀末にはドイツの植民地となり、第1次世界大戦でのドイツ敗北後は、ベルギーの委任統治領となりました。
ドイツもベルギーも、ツチ族の王政を支持し、ツチ族とフツ族との対立をその支配に最大限利用してきました。政府の重要なポストにはツチ族のみをつけ、教育もツチ族のものにだけ行なうなど、部族間の対立をあおったのです。1959年には、これに不満を持ったフツ族が反乱に立ち上がって王政が廃止され、62年に共和国としてルワンダはベルギーから独立します。
その後、73年にフツ族で、当時の国防相であったハビャリマナが軍事クーデターを起こして政権を握り、75年には全ての政党を解散し、独立体制を確立して大統領に就任します。
このころから目立つようになったのがフランスの介入です。75年にルワンダと軍事協力協定を結んだフランスは、多額の軍事援助、ルワンダ政府軍や民兵組織の育成などでハビャリマナ大統領をささえてきました。
90年10月に、ルワンダ独立のころにウガンダに逃げ込んだツチ族の子弟や独裁政権に反対するフツ族の人々がルワンダ愛国戦線(RPF)を結成し、ウガンダを拠点として攻撃を開始しました。RPFが首都キガリにせまる中、ハビャリマナ政権は93年8月にアルーシャ協定(和平協定)を結ばざるを得なくなります。その中身は、挙国一致内閣を作り、1年10か月後には総選挙を行なうというものでした。しかしこの協定が引き伸ばされている間に、上に述べたような大統領の暗殺があり、大虐殺が発生したのです。

アフリカ諸国に発生している内戦の直接的起因には民族の対立があるのですが、それが起こってきた背景として見落とせないのが、過去の欧米諸国の植民地支配です。
欧米諸国が過去に植民地の支配を進めてきたときに民族の対立をあおり、自分たちが植民地支配を進めるときにそれを利用してきました。そして今なお、その利権に絡んで欧米諸国が裏で軍事的支援を行なっているのです。

C内戦に対する先進諸国の対応

国連安全保障理事会は、6月23日に『人道援助』を目的にフランス第一師団2,500人をザイール国境に派遣することを認めた。
しかし、フランス軍派遣に対しては反対の声は多く、特にRPFはフランスがハビャリマナ政権の側につき、今までのフツ族虐殺を容認するものだとして、強く抗議している。
実際に歴史をひもといていくと、フランスは1975年以降ルワンダのハビャリマナ政権を支えており、90年10月のRPFによる攻撃開始、93年1月の再度の攻撃の時も軍隊をおくってハビャリマナ政権をささえているという例があることから、フランスの「国連」と肩書きのつく軍隊の派遣が民族紛争の解決にはつながらない事はあきらかであろう。
これに対して、フランスはあくまでもこれが『人道的目的』であることを強調している。敵対する両民族の間で犠牲になっている人を保護するためのものであって、RPFとも政府軍とも敵対するつもりはないと言い切っているのだが。

「国連」という肩書きで援助の手を差し伸べることが『人道的目的』とか『民族紛争で犠牲になっている人を保護するのが目的』というように言われることが多いが、軍隊を派遣していくことが内戦の根本的な解決につながっていくとは到底言い難い。それどころか、内戦をかえって助長してしまうことにもつながりかねないのではなかろうか。

D被害に遭っている子供達

ルワンダは元々5歳未満の死亡率が高い国であり、5人に1人は5歳の誕生日を迎えることが出来なかった。国土は豊かなのだが、立て続く内戦のために農業生産力が低いのである。栄養状態も悪く、子供の50%は悪性の栄養不良に、30%は中度から重度の栄養不良にあった。
今回の内戦で発生した難民のうち30〜50%は子供で占められており、子供たちはコレラや赤痢にかかりやすい状態に置かれている。まさに彼らの健康と生命は目を覆う状態になっている。
また、この内戦によって、子供たちも「弾丸の標的」にされ、彼らに与えられた精神的ダメージも大きく、今まさに危機的状態にある。


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