ユニセフの活動の特徴
そして、終戦直後の日本の子供たちの置かれていた状況もひどいもので、当時のユニセフから粉ミルクや医療品を中心とした援助を受けたのでした。
昭和24年の秋、ユニセフ援助物資の第1便が神戸港に陸揚げされました。
援助として送られた原綿約1,400箱は、男児用の上着とズボン、女児用のワンピースやメリヤス下着に加工され、生活保護を受けていた家庭の子供たちに配布されました。
2800トンのスキムミルクは、札幌、仙台、東京、横浜、名古屋、大阪、福岡など全国12都市の保育所、養護施設、公立小学校などの子供たちの1年間分の給食用として、また全粉乳は、14都市の困窮家庭の乳幼児に配給されました。
戦後の食糧難で、くる日もくる日もジャガイモとサツマイモを食べていたこの時代、学校給食のミルクは子供たちの栄養改善に大きな役割を果たしました。
その後も、北海道の冷害や伊勢湾台風、チリ地震による津波災害などの緊急援助や、栄養状態の悪かった奄美大島の児童給食計画など、昭和39年まで、15年間にわたり当時の金額で65億円相当の援助を受けました。
日本が現在経済的に発展を遂げる事ができた背景にはこうした援助もあったのです。
ユニセフの活動は、「すべての人々が平等に生きる権利がある」という事を基本理念として、開発途上国の人々が「本当に自立していくために何ができるか」を考えて、特に立場の弱い女性や子供たちに重点をおいてさまざまな援助活動を行っています。 そしてその援助は人種・思想・信条・年齢・性別などの違いによらず、それが本当に必要とされている人たちの手に均等に行き渡るべきだとユニセフは考えています。
ユニセフはこのような視点に立ち、単に物品を送るだけではなく、彼らに技術を伝え、教育を向上させ、民間の産業を育成する事で最終的に発展途上国が自立できるようになるための援助を続けています。物を送るだけではだめなのです。
ユニセフ募金は、世界中で集められており、その内訳は政府の拠出が約67%、民間募金によって集められた募金が残りの33%となっています。
1994年度にユニセフが世界中から集めた募金額は10億6000万米ドル(約1150億円)です。
その中で、日本政府がユニセフに拠出しているお金はわずかに36億円でした。
ユニセフが世界中の子供たちを救うのに使うこの活動資金の総額は、日本政府が住専の不良再建処理に充てる額のわずかに1/6であり、湾岸戦争の時に使われたF-116ステルス戦闘機わずか5機分、マイクロソフト社社長のビル・ゲイツ氏の年収よりもはるかに少ない額なのです。
しかし、そのユニセフがこれまでになし得た成果を見てみると、1995年には5歳未満の乳幼児の死亡数を1300万人になり、これは1990年に比べて250万人もの減少であり、ユニセフが創立されて以来この数は約半分になっているのです。